お芝居初めて物語
「邯鄲(かんたん)」
1994年 初夏 学芸大芸術館ホール 作:三島 由紀夫 演出:越智 コウタ
私が初めて舞台の世界に憧れたのは中学3年生のとき。
イッチョ前にも中3の分際でありながら、N.Y.で初めてミュージカルを見て。
その時見たミュージカルは「ジェーロム・ロビンズ・ブロードウェイ(英語分からん)」だったんだけれども。
今でもその最初から最後まで全部覚えているくらい大・大・大感動したんです。英語が分からなくても。
で、中3の頭で、その時思ったことが
「今から、このやる(演じる)方は難しいよな、小さい頃からバレェやってないとだし・・・」
「・・・でも、裏方さんなら、今からでもできるかも。できるかな。できるな。」
とにかくこんな舞台に関われれば良かったの。
しかし、その後たいして行動はなく。
ただ漠然と「裏方さん」という目標はあったんだけれども、何をすれば「裏方さん」になれるんだ?
どうそれを目指したらいいのか、分かるわけも無く。芝居とは全く無縁のスポ根な高校生活を送り。
大学も美術系(映画学科、舞台学科)か教育系かで迷いはしたが、担任の一言で結局教育系。
一見、全然「舞台」から離れたかに見えたわけですが。
人生、どこで「きっかけ」が転がっているかなんて、分からないもんでさぁ。
教育系の大学に行ったからこそ、舞台を始めるきっかけともなり。
親、先生は「何でまた・・・??」と首をひねる結果となったのであるが。
大学入学直後はバトミントン部からもしつこい勧誘があったが、私はテニスサークル「ウインブルドン」に入った。
もう、「華の大学生活満喫」って感じで。毎晩おごりの飲み会、カラオケ。
山形への合宿。先輩にもなんかかわいがられて。
結構ナンパっぽい感じでありながら、練習は意外にもかなりハードで。運動、テニス、スポ根、したした。
そんなテニスまみれな私が1年の時、「一般教養(略して『般教(ぱんきょー)』)」なる授業が存在しまして。
自分の専攻に関係なく「人文」「社会」「自然科学」のカテゴリーに分かれ
授業をとらなければならなかったんだけれども、
「専攻に関係ない=いかに楽していい成績を取るか」よいうことになり、これが最重要課題であった訳で。
評判のいい先生の授業にはもちろん受講者が殺到。
裏技、徹夜、体力勝負、そして運試し的な受講申し込み闘争があった。
そんな中、テニスの先輩に「これ、楽してA(成績で一番いいもの)が取れるらしいよー」と教えてもらった授業。
それが、あの「演劇学」であった訳である!!
この「演劇学」という授業は、台本を選んで役者・スタッフのグループに分かれて、
それで芝居を1本うつ、という授業。で、とにかく出席してれば自動的に成績が「A」になる、というものだった。
「そういえば昔、舞台とかに興味合ったし、楽してAなら、良いやこれで」的なノリで
クラスの子と一緒に受けたんだけれども。
「まぁ、なんか楽なスタッフができればいいやぁ」と、授業もそっくり返って怠慢に聞いていたんだけれども。
ある時、この授業の教授"シロウ先生"は
「今まで役者をやったことが無い人は、ぜひやってみましょう。」みたいなお話をされた。
「(下積みがなくて)いまさら役者なんて、できるわけがないじゃん」って思っていたけれども
まぁ、経験にはなるのかな?とも思って
あと、このときの先生の話に何か感じたのよね、憶えてないけど。じゃないと、役者やろうなんて思うわけないから。
で、私は「やめたらー?」というクラスの子の反対を押し切り、役者で参加することにしたのであった。
実は、この授業は「楽をしようと思えば楽に取れる。苦労したいなら鬼のように苦労できる」の授業であった。
芝居の何にも知らない私にとって、授業後の「稽古」自体そのものが、授業時間外の拘束、信じられん。
特にこのときの発声で使っていたテープが「南無観自在菩薩」、なぜ?
皆、輪になってあぐらをかいて、低い声で一緒に言う。ちょっと宗教も感じてますます倦厭。
しかもこの母音だけ言う「あうあんいあいおあう」の発声練習は、笑をこらえるのが必死だった。
「あうあんいーあい」をひたすらくりかえし
さいご「おうっ、あーーーーーーーーー」と息続く限り吐く。この「おうっ」がおかしくて。
特に三町が力入っていて、彼の「あうあん」はいまだに耳にこびりついております。
ちなみにこの年の「演劇学」は3つのグループに分かれたんだけれども
たまたま私がいたグループのメンバーがすごかった。「邯鄲」チーム、越智君、三町、片桐、大木、吉田。
後々ものすごい腐れ縁となっていくけれども、この頃はあえて避けていたので
話すこともなく。稽古が終わったら直帰していたので、仲良くなる訳もなく。
一人だけグループの中で浮いた存在であったのは確かで。
スタッフやっておけば良かったと、何度も後悔したが。もう仕方ないし。
演劇学ゼミのプレハブでの夜遅くまでの稽古。そこに正座をした"オゾラの村上"氏がいた。最初の対面は恐怖だった。
とにかく皆、私の怠慢な態度を心配してくれて、色んな忠告をしてくれたのであった。ここでひたすら踊りの稽古。
この「邯鄲」の本当のストーリーはこう。
中国の青年廬生は、楚国の高僧に、人生の教えを乞いに行く途中、邯鄲の宿に泊まりました。
この宿の亭主は、不思議な枕を持っていました。この枕をして眠ると、瞬時に悟りが開けるというのです。
亭主の薦めで、廬生も、その枕で、一眠りすることになりました。
枕に頭をつけると、たちまち勅使が現れ、楚国の帝が、廬生に位を譲ると云います。廬生は戸惑いながら、
輿に乗って宮殿に行き、王位に就きました。
そして、五十年が経ち、廬生は、一千年の寿命を保つという仙家の酒を飲み、
長寿を祝う酒宴を開いて舞を舞い、限りない栄耀栄華を尽くした日々を送っていますが、
宿の亭主に、食事が出来たと起こされ、一瞬のうちに宮殿は、旅宿に戻りました。
廬生は、王位に就いての五十年の栄華も、人生そのものも、夢だとの悟りを得て
枕に感謝し、故郷へと帰っていきました。
稽古も1月もやってりゃ、それは徐々に話すようにはなるわな。
特に、このスタッフだった吉田とチアキちゃんと仲良くなって
何となく「楽しいかな」なんて思うようになったりして。
皆と話すようになって。ごはん食べたり飲んだりするようになって。
私は昔からそうなのだが、クラス替え直前になってやっとものすごく仲良くなって、その後続くみたいな。
このときも授業の芝居の本番直前、合宿所にお泊りするようになってからものすごく仲良くなり。
で、本番。そして打ち上げ。
なんか最初の頃の「超消極的」態度から一転して「超積極的」態度になった私に
友達もビックリだったが、自分もビックリさ。
いざ終わってしまうと、寂しいもので。
この時、先ほどの悪友達が「漠にはいればー?」みたいなことを言ったのであった。
"片桐"は「演鑑演劇部にはいればぁ?」といった。そのほうが私には合っていると思う、と。
「漠」というのは「劇団▲漠」で大学の演劇部。
超本格的、超スパルタ、超玄人集団。その頃の私はそう認識していた。
「演鑑演劇部」というのも大学での演劇サークル。
OKダンス。宴会。マージャン。ゲーム。楽しい雰囲気。最初のころはそんな風に認知していた。
でも、そこまでは踏ん切りつかなくて、「いいや、遊び友達で」と再びテニスな生活に戻る。
しばらくたって。この「劇団▲漠」が公演をするという。この時初めて漠の芝居を見に行ったんだけれども。
この時見たのが「ランドセル」。この時初めて"南京の俺様"を観る。
「鯨の肉の給食」や「フォークダンス」や「スキヤキ」。
しかも、このときの肉って、3万円だっけ? 違ったかな? 見てて懐かしいような、切ないような、温かいような。
この芝居がよかった。本当によかった。この芝居を見て、芝居って本当にいいなぁ、すごいなぁ、と思った。
唯一ヒロインのアキさんもすごくきれいで。なんか、ちょっと憧れて。"南京の俺様"もすごいうまい人だなぁって。
これを観て、何となく「漠」に入ろうかなぁ、と思い出したのね。
同じクラスだった"ゴウちゃん"も漠に入っており、その彼女の初舞台「小説倶楽部」も見て。
これには三町・大木・"空中バレーの坂"が出ており。でここで初めて"中山氏"を観る。
で、そのまま打ち上げまで行っちゃって。手巻き寿司だったんだ、そこで村上さんにマヨネーズ持って追っかけられて。
怖い人いっぱいだったけど、"ヨウジ小林"氏と異常に大きく見えた"ヒロミツセキ"氏。脅しバリバリ。
デモでも何となく馴染める雰囲気。で、入ることに決めた。
決めてしまった。こうして私は「劇団▲漠」に所属した訳です。
もしここで普通にテニスをやってたら、きっと今頃は全然違う生活してたんだろうなぁ、と。
きっとこれが私の手相にある「大きな枝分かれ(分かれ道)」の1本だったんだったんだな、と。しみじみ思う訳で。
この頃の私、このあと、鬼のような忙しさが待っているだなんて、思いもしないで〜、ちょっとかわいそう。
モドル もっとモドル
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